2012.02.01
Vol.48 〈悲劇の将軍〉
本間雅晴中将は悲劇の将軍と云われます。堂々たる体格と洗練された教養、日本陸軍きっての英米通でした。
フィリピン進攻作戦の失敗で予備役に編入され、戦後に「バターン死の行進」と云う 捕虜虐待の責任を問われ、マニラで銃殺刑となった人だった。
開戦当初の本間の作戦は順調でしたが、首都マニラ占領を優先せよと云う、大本営の指示に従ったため、バターン半島に逃走した米軍への攻撃が遅れ、それが本間の失策とされました。米軍の司令官だったマッカーサーはコレヒドール島の要塞を脱出しますが、誇り高い彼が敗戦の屈辱を受け、その報復として行われた本間への処刑でもありました。
本間は明治20年(1887)新潟県佐渡の農家に生まれ、佐渡中学を経て陸軍士官学校を出、大正4年陸軍大学校を最優秀の成績で卒業。
イギリスなど外国駐在が長く、語学力は抜群で、文弱の徒とも評されました。
バターン占領後、予想をはるかに上回る大量の捕虜が投降、輸送力がなく収容所まで歩かせたのですが・・・すでにマラリアなどに冒されていた捕虜は、食糧不足と炎熱のために
1万余名が衰弱死したのが実態でした。
本間の裁判には、富士子夫人が証人として出廷「私は今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。」と延べ、裁判官も検事も感動の涙を浮かべました。
銃殺される時に立ち会った、通訳の上脇辰則らの証言に寄よれば、死刑執行官の「用意!」の声に続いて、「さあ来い!!」と、云う気迫のこもった、本間の最後の声を聞いたとの事です。
本間雅晴(ほんま まさはる 昭和21年・1946年死刑・享年59歳)
いつもいつも、ご指導を頂いています。岐阜県池田町、潟^ニサケ 松岡会長から頂戴しました、フレッシュタニサケより抜粋(原文のまま)させて頂きました。
私は先の大戦を実際には知りません・・・
靖国神社の遊就館、鹿児島・知覧の特攻平和会館等で二十歳前後の若人達の遺書の格調の高さ、潔さ。。。思わず落涙した事が昨日の事の様に思い出されます。
特攻平和会館には17〜25歳くらいまでの方々の遺影が飾られていました。
写真はいずれも笑顔ですが・・・まだまだ、幼さが残る顔です。
昭和2年生まれの方もおられました、今、生きておられても85歳
「我々はこの様な日本にするために戦ったのではないぞぉ〜」
遺影が脳裏に焼き付いています。
これは今日を生きる私たちへのメッセージです。
熱く熱く生きて行こう・・・!!
「さあ来い!!」の氣迫を持って。。。
感謝合掌。
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